igomasの部屋

どうも、igomasです。ウルトラマンファン。ヒーローより怪獣、悪役が好き。今日も今日とて「悪役」考察♪

ウルトラマンにおける怪獣描写について

 ウルトラマントリガー第3話感想記事を書いていた際、補論として「ウルトラマンにおける怪獣描写について」というのを書いたのですが、これがなかなか思っていた以上に根深い問題で、とてもミニコーナーで扱える文章量ではなかったので、一つの記事としてここに掲載しておきます。

 怪獣描写が、いかに大事であるかご理解いただけると幸いです。

 

 

 第2話から続く、「怪獣をどれだけ丁寧に描写すべきか」という議論で、Twitterでも様々な意見が飛び交っていました。それらの意見を大きくまとめると、①怪獣中心で物語を展開すべき、ウルトラマンは最後の取り纏め役でしかなく、主役はあくまで怪獣。②ヒーローものというものは、主人公に魅力があるのはもちろん、悪役にも魅力があった方が良い。対峙する敵が魅力的なほど、主役もまた魅力が増す。③ウルトラマンが主役なのだから、怪獣は軽んじても良い。の3タイプに分かれるようです。

 「映画館でしか見ることの出来なかった怪獣特撮を、毎週テレビで見られるように」というウルトラシリーズの創始理念からすれば、かなり怪獣を重んじるべき、と私は考えています。怪獣という存在は、その殆どが50mを越える体長を持っています。ただ存在するだけ、暴れているだけで町一つが簡単に消し飛ぶほどの脅威。それが怪獣なのです。また多くの怪獣はこれらに加え特殊能力を備えており、その巨体も相まってあっという間に地球を破壊できてしまうような怪獣も、シリーズには多く登場しています。ちょっと登場して倒されるだけの存在、では収まりきらない脅威が、怪獣なのです。どんなに弱い怪獣であっても、一歩作戦を間違えればビルがどんどん崩れて大災害になってしまう存在。だからこそ、隊員らは毎度細心の注意を払い、命がけで対処しなければならない。これが、「怪獣」が仮面ライダーの敵「怪人」と一線を画す点です。

 それだけの脅威を描いておきながら、怪獣の描写をすることを軽んじていては、何のためのウルトラマンだ、という話です。怪獣を撮らないなら、それはもはやウルトラ作品ではないとさえ言えるかも知れません。そういう意味では、私は①寄りの②の立場と言えましょう。

 怪獣に焦点を当てて物語を展開する①のパターンには、多数のメリットがあります。文字通り異質な存在である「怪獣」が現れ、その生態に防衛隊が迫る前半。出生の秘密や生態を解明し、対策を練る中で、着々と怪獣の魅力を上げる中盤。怪獣との戦いでそれを実践し、ウルトラマンとの共闘などもありつつ強敵を打ち倒す終盤。これだけで、ヒーローものとして非の打ち所のない魅力ある作品が作られます。また、前半・中盤・終盤のどこかでキャラの掘り下げを上手く入れさえすれば、それはもう立派な「プロの完成品」へと変貌します。正直、①のパターンが完璧なフォーマットなんですよね。これに乗っ取れば、脅威となる怪獣、対処する防衛隊、怪獣と対峙するウルトラマン、どのキャラの魅力も高まりますし、作品に何の破綻も出てきません。

 しかし、ものを作る人間とはすべからくこれまでのフォーマットを嫌うもの。②くらいの考えで抑えて、自分のやりたい縦軸展開などと絡めてく、というのも一つの手なのでしょう。もちろんのこと、①で完璧に出来ていたフォーマットをあえて崩すわけですから、それなりの力量が求められますし、上級テクニックといってよいでしょう。

 では、上級テクニックとは、どのくらい高度な領域なのでしょうか。これがなかなか深い問題なのです。

 ②で紹介された、「悪役の魅力があるほど、主人公の魅力も増す」というのは、まさに私が常日頃言っている悪役論に他なりません。折角ですのでここで、悪役とは何なのかについて、説明しておきたいと思います。

 そもそも「物語」とはなんでしょうか。今日こんなことがありました、とか、ただただボーッと生きてましたとか、そんなものは物語ではありません。主人公の精神的な成長、それこそが物語の真髄です。登場人物が、様々な困難や苦難を乗り越え精神的に強くなっていく。これはすべての物語について言えることです。

 ところで、物語の主人公が精神的に成長するためには、そのきっかけとなるものが必要です。それは、先述の通り苦難や困難であります。我々が現実世界で「精神的に成長する」ときもそうであるはずです。苦難や困難とは、例えば治療の難しい病気にかかるとか、必死になってやる受験勉強とか、引き裂かれた恋とか、嫌な上司が嫌味を言ってくることとか、様々です。

 例えば、治療の難しい病気にかかった例。死を目前にして初めてわかる命の大切さ。自分がいかに人生を無為に生きてきたかを振り返り、また自分を心配してくれる多くの人との交流の中で、どれだけ自分が恵まれていたかを理解していったりするわけです。自分を見つめ直し、他者との関係も見つめ直す。そうして精神的に成長していく。

 例えば、引き裂かれた恋の例。家の方針や社会情勢により、結ばれない二人が、愛を深めあいながら、家や社会の束縛から解き放たれようと立ち向かっていく。そのためには、他者を納得させる説得力だったり、社会へと挑戦する勇気だったりが必要になってきます。こうして二人は、精神的に成長していきます。

 例えば、嫌な上司が嫌味を言ってくる例。無理難題な命令に断固拒否し、上司を打ち倒す。上司の言いなりだった弱い自分から強い自分へ、成長する。

 精神的な成長を描くために、もっとも都合が良いのが、悪役を出すということ。上に3例挙げましたが、病気や社会情勢という概念的なものよりは、嫌な上司という具体的な一個人が敵である方が、対立構図がシンプルで見やすくなります。作り手も描きやすく、視聴者にもわかりやすい。悪役を描いた方がよほど楽なので、多くの作り手はこの手法を好みます。

 こういう場合には大抵、主人公と敵を鏡あわせのように対立させると、より構図が見えやすくなります。例えば、部下を蔑ろに扱う残忍な、しかし強力な一匹狼の敵を倒すため、主人公は仲間との絆で対抗する。主人公は仲間と協力することの大切さを学び、精神的に成長する。一人では到底倒せなかった敵を皆で倒すことで、一匹狼の敵と主人公との対比が効いてきます。

 例えば、多くの人間を守るためには多少の犠牲はやむなしとして殺戮を行う敵に対し、どんな人も救ってやるぞと対峙する主人公。主人公はここで、敵が不可能と思っていた「二兎追って二兎得る」というのを実行に移せるだけの精神的な成長をすることになるわけです。やはり悪役一個人がいると、構図が単純化するというのがおわかりいただけたかと思います。

 しかしここで抑えておきたいのは、悪役はあくまで作品を彩るスパイスだということ。悪役とは本来、いなくてもいいのです。上の例なら、病気や社会情勢といった概念的、抽象的なものでも、十分主人公を精神的に成長させる要因たり得ます。悪役なしに話を進められるのであれば全く問題はないのです。しかし製作陣は、あえて悪役を出しているのです。別に出さなくてもいい悪役をあえて、物語の単純化のために出すのです。そのあえて出した悪役に魅力がないなら、作り手としては全くダメです。

 なら最初から悪役を出さなければいい。悪役なんて使わず、もっと上手く精神的な成長を示すやり方を、先人たちは開拓してきました。先人に並び、先人を越えるつもりがあるのなら、当然の如く悪役はしっかり描かなければならないでしょう。だから、悪役を描かない、ということはありえません。怪獣という大きな脅威を描くのならなおさらです。

 そんな無理なオーダーされても答えられないよ、と並の監督なら思うでしょう。だったら①のフォーマットをやればいいのです。①のやり方に従うだけで、作品が遜色ないものに仕上がるのですから、これほどありがたい話はありません。なのにあえてフォーマットを崩して②のパターンで撮るというのなら、よほどの覚悟と力量が必要だということはご理解いただけたでしょうか。

 現在の円谷製作陣は、どうも③側の人が数人いらっしゃる気がしてなりません。今までの話からも分かるとおり、③のパターンは、正直に申し上げると一種の「逃げ」であり「甘え」です。①の時点で既に、ウルトラマン、防衛隊、怪獣そのすべてに魅力を与えるだけのフォーマットが完成されています。それを避け、②のように自分なりに描ききろうという努力もせず、ただただプロ意識のないシロモノを作ってしまう。そうして出来たシロモノは、もはや物語ですらない別の何かになってしまいます。

 また、③の考えを持ってしまうと、たちまち負のスパイラルに直面します。一度怪獣は別に描写甘めでいいか、と逃げてしまうと、次第にそれが楽になってきます。人は楽な方へと流れます。別に怪獣を軽んじたっていいのなら、怪獣のスーツだって使い回しで良い。人気のある怪獣のスーツが残っているから使い回せば良い。新規怪獣は少なめでもいい。そうしてより一層、「怪獣の出生・生態にじっくりフォーカスし、悪役を魅力的に描く」ということを忘れ、気づいてみれば後世に胸を張って残せるような「怪獣」という大事な大事な財産を残せないまま風化していく、なんてことになりかねません。

 それに、こう何度もシリーズをまたいで同じ怪獣が出てきては(現にグビラなどはここ10年で6回出てきている)、似たような怪獣を使い回して、戦うウルトラマンの方が変わるだけでしかなく、そのウルトラマンの魅力というのは大幅に激減します。それはもはや、新作ウルトラマンと言っていいのでしょうか? 毎年変身アイテムとウルトラマンだけが変わるなら、それは過去作品の再放送と何が違うのでしょう? ただの販促CMでしかないのではないでしょうか?

 ということで結論、物語を作ろうとするのなら、①か②以外あり得ない。③の考えで作ると、それすなわち物語の放棄、ただの販促CM止まり。これから円谷がどのような推移をたどっていくのかは分かりませんが、この点だけは注意深く観察していきたいところです。

 それでは、また次の記事でお会いしましょう、igomasでした!