igomasの部屋

どうも、igomasです。ウルトラマンファン。ヒーローより怪獣、悪役が好き。今日も今日とて「悪役」考察♪

映画における「テーマ」の捉え方

 最近質の高い映画を何本か見た。その時ふと思いついたことがあったのでここに記す。映画というメディアの形態についての話である。映画は、言うまでも無く、映像によって作られる作品である。文字化された小説とも、音声のみによって作られたラジオやCDとも、何枚もの画像を連続させるアニメーションとも違う。さて、この映画というメディアを鑑賞するとき、どういう気持ちで見れば良いのだろうか。
 映画評論サイト、というのがある。映画レビュー、というのがある。そういうのを見ていると、勿論どのartに対しての意見にもあるように、ただ感情にまかせて書き殴っているものが共通してあるのは良いとして(良いとは言えないが)、作品自体を論理的にひもといてゆこうとする感想文が多々ある。自分の気持ち、というのはたいそうアバウトなもので、やはり書き殴るよりかはある程度論理的に自己分析している感想の方が幾分か参考になる。そういう感想文を見ていると、どうもこれらも、他のartに対するそれと同じく、作品のテーマがどうのこうの、という話が書いてある。
 作品のテーマ、というのは我々もの書きにとって生命線である。なんのテーマ性もない評論文など存在に値しないし、主軸のない物語は作り込みの浅さが目立つ。文学作品というものは、其れがダイレクトなメッセージであれ間接的に皮肉めいたものであれ、テーマを必要とする。そこまでは大いに賛同する。しかし、果たして映画のテーマをそれと同義として扱って良いものか、と考えるのである。
 事の発端は、私の敬愛するマーベル・シネマティック・ユニバースを、数々の映画評論家が、そもそもこれらの作品群は映画ではないと発言したことにある。彼らは言う。こんなものは何のテーマ性もない、ただのエンタメ作品、遊園地のジェットコースターである、と。まぁ、言えてる、と思う部分が無いわけではない。彼らからすれば、アベンジャーズなどただのお祭り映画にすぎないのである。しかしよく考えてみると、ブラックパンサーは黒人問題を取り扱った作品だし、キャプテンマーベルは移民問題を扱った作品だし、アベンジャーズエンドゲームだって、「ヒーローとはその人間性であり、スーパーパワーではない」という大きなテーマの中で動いている。調べてみると、結局こういった映画評論家はこれらの作品群を見ていなかっただけなのであった。見てもいないのに勝手に発言するな、と言いたいものである。
 まぁそれはそれとして、この一件を通して、では果たして映画におけるテーマってなんだろう、という疑問が湧いて出た。そこに現れた、考察するには格好の映画が、ジョーカーである。作品について、説明の必要はあるまい。未視聴者は見るべし。さて、この作品であるが、テーマは明確である。作品を見て、作り手の意図を紐解けば何の事は無い。ストーリーも単純明快である。しかし、巷の人々は、作品のテーマを巡って意見が分かれているらしい。そもそも彼らは、この作品がどういう話かまるでわかっていない。まずそこから議論が始まる。映画の最後のシーンが表す意味は何か、もしかするとこの話は全部、主人公の妄想じゃないか、とか、もしくは実はこの作品のジョーカーは我々の知るジョーカーではなく、この映画の主人公に感化された犯罪者の一人が我々の知るジョーカーではないか、そうすればバットマンと年齢が合うじゃないか、とか、そういう的外れな議論が相次いでいる。まぁ、物語を正確に捉えられていなくても、考え方としてそれはそれで面白くはある(実際、この映画の監督も、そういう考えを面白いと認めているようだ)。話がだいぶそれたが、ここで重要なのは、そのストーリーですら色々な考えが出てきているのだから、作品のテーマなどファンの間で一つに決まるはずなど到底ない、ということである。まったく困ったものだ、見た作品が何を言いたいのか、言語化すらできないなんて、と思ったものだ。しかしいざ自らもそのテーマを説明しようとすると、これが一体どうしてもできない。ストーリーは分かっているし、登場人物の行動やセリフひとつひとつで何を表現したいのかは分かるのに、では其れが一貫して示したいテーマというのは、言語化できないのである。
 さてそんなことを考えているうちに、マーベル・シネマティック・ユニバースはフェイズ3を終える。その締めくくりとなるのが、スパイダーマン・ファーフロムホームである。この映画で、私は深い深い沼にはまる。そう、俳優ジェイクギレンホールである。彼の映画には外れがなく、とても評価の高い傑作揃いである。そんなわけで、ジェイクギレンホールにはまるといい映画をいやでも見ることになるわけだ。
 『ナイトクローラー』『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』の二作は特に印象に残る作品であった。こういう良質な映画を見ているうちに、私は、映画のメッセージ性というものは、なにも言葉で表さなくても良いのでは無いか、と思い至ったのだ。良質な映画は、一つ一つのカットが細部に至るまで計算し尽くされたものであり、その映像が、静止画ではなく、登場人物らが見せる変化によってより味を出す、そんなものであるはずだ。映像で見せる、変化で見せる、そういうもの全部含めたartの側面を持っているのが、映画というメディアであるはずだ。であるから、映画を表現するときに文字化してまとめるなどという行為自体がそもそも野暮であり、映画のテーマを言語化するのも、上手く伝わらないはずなのである。
 映画評論家は、その職業柄映画を説明する際に文字化を強いられ、その過程でいつの間にか、小説に対するそれと同じように作品を分析してはいないだろうか。映画とは、映像である。動きである。ここのこういうシーンのこのカットが、とか、ここの登場人物の動きが、とか、そういう議論をしなければ、そもそも映画評論としては成り立たないのではないか。今一度、映画というartの存在意義を考え直していただきたい。そう思う今日この頃である。